菊田大使によるアンザック・デー追悼式典におけるスピーチ
令和7年4月25日
※本稿は英語で行われたスピーチの仮訳です。
ペヒン・ハルビ第2国防大臣閣下、
マイケル・ホイ・オーストラリア高等弁務官閣下、
ご参列の皆様、
皆様、おはようございます。本日、私たちはANZAC(アンザック)デー追悼式典のため、ここムアラ海岸に再び集いました。
皆様御存知のとおり、ANZACデーは、1915年4月25日に、ムスタファ・ケマル・アタテュルク将軍率いるオスマン帝国軍と戦ったANZAC軍が、ガリポリに上陸した史実を起源としています。それから1世紀以上経った今日では、ANZACデーは、オーストラリアとニュージーランドの国民が、これまでに関与してきたすべての紛争で従軍した人々を称える日となっています。
そして、ここブルネイでは、第二次世界大戦中に起こった出来事を踏まえると、更に特別な重要性を持つ日であります。オーストラリア高等弁務官であられるマイケル・ホイ閣下が、和解の精神と寛大なお心遣いをもって、本式典に他の参列者と並んで私をご招待下さったことに、敬意と感謝の意を表します。
戦時中、大日本帝国軍は1941年末、ミリ、セリア、及びクチンを攻撃し、ブルネイ全土を占領しました。翌年にはラブアン島に空港を建設しました。しかし、1945年6月、オーストラリア軍を含む連合軍がラブアンとムアラの海岸に上陸し、ムアラ海岸一帯とその周辺で激戦が繰り広げられました。ムアラ地区での戦闘は6月12日にピークに達し、6月17日夜に独立歩兵第366大隊は全滅したと考えられています。これらの戦闘で、オーストラリア軍兵も百人以上が戦死しました。
ANZACデーという厳粛な機会を迎えるにあたり、戦いで亡くなられたすべての方々に深い敬意を表します。また、マラリア、アメーバ赤痢、飢餓、疲弊といった苦悶に直面し、ボルネオ島のジャングルに命を落とした日本兵、並びにオーストラリアの戦争捕虜の方々にも、心よりお悔やみを申し上げます。
今年2025年は、第二次世界大戦終戦80周年にあたります。
私自身、中国満州における戦いで祖父を亡くしました。それゆえ、私は戦没者遺族の家庭に育ち、そして今、駐ブルネイ日本国大使としてここに立っています。このことは、私に特別な深い感情を与えると同時に、私たちが共に、この地域、そして、全世界の平和を追求していかなければならないという強い信念を抱かせるのです。
80年前、日本とオーストラリアは対立する立場にありました。しかしその後、両国はインド太平洋地域の平和と繁栄のために最大限の努力を重ね、今や同じ目標を目指す揺るぎない信頼できるパートナーとなりました。
残念ながら現在、私たちは世界の分断と、多くの地域に於ける武力紛争の長期化を目の当たりにしています。しかし、憎しみのエスカレートは、何ら建設的な結果をもたらしません。私は、それぞれの違いを乗り越えて、この星の上でどうしたら共に生きていくことができるのかを私たちすべてが考えなければならないと固く信じています。日本は、第二次世界大戦の灰塵から生まれ変わり、平和を愛する国として、歴史の教訓を心に深く刻み、世界の平和と繁栄のために力を尽くしてきました。そして、日本は、これからもこのコミットメントを堅持していきます。
結びに当たり、ブルネイにおけるANZACデーが、老若を問わず、すべての人々にとって、平和な未来に向けて協調して取り組んでいくことの大切さを想起させる日であり続けることを祈念致します。
御清聴ありがとうございました。
ペヒン・ハルビ第2国防大臣閣下、
マイケル・ホイ・オーストラリア高等弁務官閣下、
ご参列の皆様、
皆様、おはようございます。本日、私たちはANZAC(アンザック)デー追悼式典のため、ここムアラ海岸に再び集いました。
皆様御存知のとおり、ANZACデーは、1915年4月25日に、ムスタファ・ケマル・アタテュルク将軍率いるオスマン帝国軍と戦ったANZAC軍が、ガリポリに上陸した史実を起源としています。それから1世紀以上経った今日では、ANZACデーは、オーストラリアとニュージーランドの国民が、これまでに関与してきたすべての紛争で従軍した人々を称える日となっています。
そして、ここブルネイでは、第二次世界大戦中に起こった出来事を踏まえると、更に特別な重要性を持つ日であります。オーストラリア高等弁務官であられるマイケル・ホイ閣下が、和解の精神と寛大なお心遣いをもって、本式典に他の参列者と並んで私をご招待下さったことに、敬意と感謝の意を表します。
戦時中、大日本帝国軍は1941年末、ミリ、セリア、及びクチンを攻撃し、ブルネイ全土を占領しました。翌年にはラブアン島に空港を建設しました。しかし、1945年6月、オーストラリア軍を含む連合軍がラブアンとムアラの海岸に上陸し、ムアラ海岸一帯とその周辺で激戦が繰り広げられました。ムアラ地区での戦闘は6月12日にピークに達し、6月17日夜に独立歩兵第366大隊は全滅したと考えられています。これらの戦闘で、オーストラリア軍兵も百人以上が戦死しました。
ANZACデーという厳粛な機会を迎えるにあたり、戦いで亡くなられたすべての方々に深い敬意を表します。また、マラリア、アメーバ赤痢、飢餓、疲弊といった苦悶に直面し、ボルネオ島のジャングルに命を落とした日本兵、並びにオーストラリアの戦争捕虜の方々にも、心よりお悔やみを申し上げます。
今年2025年は、第二次世界大戦終戦80周年にあたります。
私自身、中国満州における戦いで祖父を亡くしました。それゆえ、私は戦没者遺族の家庭に育ち、そして今、駐ブルネイ日本国大使としてここに立っています。このことは、私に特別な深い感情を与えると同時に、私たちが共に、この地域、そして、全世界の平和を追求していかなければならないという強い信念を抱かせるのです。
80年前、日本とオーストラリアは対立する立場にありました。しかしその後、両国はインド太平洋地域の平和と繁栄のために最大限の努力を重ね、今や同じ目標を目指す揺るぎない信頼できるパートナーとなりました。
残念ながら現在、私たちは世界の分断と、多くの地域に於ける武力紛争の長期化を目の当たりにしています。しかし、憎しみのエスカレートは、何ら建設的な結果をもたらしません。私は、それぞれの違いを乗り越えて、この星の上でどうしたら共に生きていくことができるのかを私たちすべてが考えなければならないと固く信じています。日本は、第二次世界大戦の灰塵から生まれ変わり、平和を愛する国として、歴史の教訓を心に深く刻み、世界の平和と繁栄のために力を尽くしてきました。そして、日本は、これからもこのコミットメントを堅持していきます。
結びに当たり、ブルネイにおけるANZACデーが、老若を問わず、すべての人々にとって、平和な未来に向けて協調して取り組んでいくことの大切さを想起させる日であり続けることを祈念致します。
御清聴ありがとうございました。